嘘だまり

それぞれの母(4)

2017年03月29日
幻の家族
翔一の母



 突然響いた乳児の泣き声が、翔一の脳裏に描く、「小母さん」の姿をかき消す。
 この家に似つかわしくない泣き声に驚いて辺りを見回せば、すでに夕闇が迫っている。止みそうにない泣き声に急かされた翔一は急いで部屋の窓を閉めて階下に降りた。泣き声が聞こえる畳敷きの薄暗い部屋を覗くと、見知らぬ乳児を抱いた翔一の母がおぼろげに見えてくる。
「どうしたの、その子」
 乳児の母親がいないと気がつき、たずねながら明りをつければ、顔色を失った幽鬼のような翔一の母の姿が部屋の中に浮かび上がり、うすら寒さを覚えた翔一は身震いした。
「かわいそうな子だよ」
 答えにならない言葉を素っ気なく放った翔一の母は、泣き止まない乳児を荷物のように畳上に置き、肩から下げた布袋を放り出して、崩れるように座り込んだ。日ごろ翔一は、母の投げやりな所作を目にしているので、今さら驚かないが、焦点が定まらなくて抜け殻にも見える母に、乳児の泣き声は素通りである。このままだと幼い頃の翔一のように、乳児は泣いたままで放って置かれる恐れがあった。
「よし、よし、いい子だから泣かないで」 
 翔一は迷わず乳児を抱き上げたが、思いもしない体の柔らかさや重さに戸惑った。それでも慣れぬ手つきであやしながら、放り出された布袋を引き寄せて中を覗けば、翔一が今まで触れたこともない、授乳用具やおしめなどが入っている。
「うるさいわね、癇に障るよ」
 いらいらした様子を見せる翔一の母。
「待って、ミルクを飲ませてみるよ」
 翔一はぎこちない片手で乳児を抱きながら、台所のガスコンロでやかんの水を沸かし、ミルク缶に書いてある説明書きを確かめながら粉ミルクを量った。
「姉がいたら、こんなことはいとも簡単にするのだろうに」
 ふとそう思った翔一は、「もしかしたらこの子は……」と、気付く。
 できあがったミルクが入った哺乳瓶の吸い口を乳児に含ませれば、勢いよく飲みだした。
「やっと泣きやんだ」
 つぶやいた翔一の母は相変わらず、腰を落としたままの姿勢でいる。
 泣き疲れたのか、それとも口が足りて満足したのか、乳児は吸い口をくわえたままで早くも眠りかけている。くわえた吸い口を慎重に外し、そっと横にしたつもりだったが、急に「げっぷ」をした乳児は飲んだミルクを吐き出してしまい、再び泣きだした。
「よく泣く子だね」
 乳児を顧みようともしない翔一の母が愚痴を「げっぷ」のように吐き出した。
 翔一はその母を横目に、乳児が吐き出した汚れをふき取り、思いついておしめを調べればやはり濡れている。翔一は布袋を引き寄せておしめを取り出し、やり直しを何度か繰り返して、なんとか着け終えた。
 この時まで動こうともしなかった母が何を思ったのか、翔一の顔を窺うように焦点を合わせてきた。
「いいよ、一晩くらい俺が面倒みる」
 翔一は短慮な母がとんでもないことを言い出す前に、泣き止んで眠っている乳児をそっと抱えて立ち上がった。母からため息ともつかぬ声が漏れ、翔一が背を向ける直前、俯きながら床に体を投げ出す姿が翔一の目の端に映った。
 いまの翔一は母よりもなぜか乳児に心が引かれた。
――こんなにも、子供が好きだったのかな?。「他人の子」と思えなかった。
関連記事
素姓乱雑
記事作成者: 素姓乱雑
Address:富山県南砺市城端