嘘だまり

ある室で (その3)

2017年02月25日
ある室で
 といっても、物語の展開が気になる亜喜夫は最初から読み直していられない。会話にならないまま互いの仲だけが進展するという、奇妙な物語の展開になった。
 店主は妖艶な声でささやく。
「時間を飛び越えてあっという間に、私とあなたは恋人」
 気になる店主から「恋人」と言われ、亜喜夫は舞い上がった。早く店主と「割りない仲」になりたい。亜喜夫は期待に震える指で性急に本のページをめくる。物語が進んだことを示すように、店主は恥じらうこともなく亜喜夫に体を寄せて座った。
 相変わらず二人の間で、気の利いた会話は無いが、店主は恋人だという亜喜夫の心をつかんで離さない。もはや亜喜夫は、現実のことなのか、はたまた、物語に登場する人物になったのか、分からなくなった。
 だが今の亜喜夫はそんな事などどうでもよかった。隣に座った店主はいつの間にか亜喜夫の陰茎を握りしめていて、すでに亜喜夫は夢心地の半ばにいるのだから。
「このままでは物足りないわ、もっと、話しを先に進めて」
 店主の甘声で、亜喜夫の夢心地は覚めた。
「なんだ、話しの中のひとコマだったのか」
 亜喜夫の陰茎には今も、握った店主の手の感触が生々しいのに。
「話しを先に進めて」と言われて、亜喜夫はページをめくろうと思い、本を探したが手元に見当たらなかった。先ほどページをめくった後で確かに机の上に置いたはずだ。本がなければ店主と会話ができなくなる。
「どうしたの?」
「それが……、 本がどこにも見当たらない。あれがないと」
「会話ができない」と、続けようとして亜喜夫は「えっ!」と驚いた。
 店主と会話ができるのは本のページを通じてのはずだ。それが、ページを見てもいないのに間近に店主がいて、亜喜夫と直に話しのやり取りしている。
「本に書いてある物語なんか気にしないで、二人で思うように物語を紡いでいけばいいじゃないの。それが本の内容だと思えばそれで済むこと」
 ページを離れた店主は、いとも簡単なことだと言わんばかりだ。
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素姓乱雑
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