嘘だまり

ある室で (その1)

2017年02月19日
ある室で
 亜喜夫がその本屋に入ったのは気まぐれでしかなかった。


 通りを歩いていると路地から少し入った所に本屋が見える。古くさい店だ。こんな場所で、しかも寂れた店に客が来るのだろうか?。窓越しに店の中を見てみると案の定、誰もいなかった。
 だが意外にも、店主は女性で若い。
 店主に惹かれた亜喜夫はドアを開けて中に入った。
「いらっしゃいませ」
 なおざりな挨拶をする店主だ。椅子に座った店主は机上に広げた本から顔を上げることはなかった。買うかどうかわからない客にいちいち頭を下げて挨拶していられないのだろう。「仕方がないか」と亜喜夫は思った。
 本棚の間をすり抜けて奥に行くと、他の本屋には無い興味深そうな本が並んでいる。亜喜夫は棚の中から無造作に一冊を抜き取り表紙をめくれば、一ページ目に「いらっしゃいませ」と言って頭を下げる店主が現れた。必要もないのに、亜喜夫はページの中の店主に向かって慌てて頭を下げる。
 窓越しから見ていて気を惹く人だと思ったが、間近で見ると一層好ましい。亜喜夫は本の中の店主と話をしてみたいと思った。
 次のページをめくると、
「私と話をしたいのでしょう」
 笑顔で語りかける店主がいる。
「その通りだが……」
 そこで亜喜夫は、「最新の仕掛けが本に施してあるのでは」と、気が付く。本をめくるとスイッチが入り、店主の映像が表れて、双方向で話しができるという類のものだ。もしかしたらどこかにカメラが備えて有り、店主もそこから亜喜夫の姿を見ているのかもしれない。それならば、この本を売ってくれと言っても売らないだろう。亜喜夫に意地悪な気持ちが芽生えた。
 さっそくレジに向かった亜喜夫は「これを下さい」と言って店主に本を差し出した。店主は本から顔を上げ、受け取った本の背表紙をめくる。
 価格などを確かめるふりをしている、と思った亜喜夫は、「あなたは今、この本を通して私に語りかけたでしょう」 と、頭ごなしに言った。
 店主は「何を言っているのか分からない」という顔付をし、亜喜夫の思った通りに、「この本は売り物ではありませんのでお譲りできません」と答えた。
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素姓乱雑
この記事を書いた人: 素姓乱雑
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