嘘だまり

かいこ(最終)

2017年02月13日
かいこ 0

かってこの地に蚕業技術指導所があった頃、父と母は人絹では得られない肌触りの良い糸を紡ぐため、自分の子供たちのように蚕を育てる夢を見た。無残にも三頭の蚕を連れて帰る途中で、両親は事故に遭い夢を絶たれた。だが、あの男は繭の中に人魂を宿して生き延び、「両親の夢である蚕の世界を作ろう」と、翔梧を誘った。
 あの男は翔梧に、『 かいこ 』へ通じる道を指し示して誘い込んだ誘導員は俺だと言った。
 あの男が今もどこかにいるとすれば、かって父が勤めていた蚕業技術指導所の跡地に他ならない。車から降りて裸足を地に付ければ、「かいこ」にいるというあの男のガサゴソと動く気配が足元から湧いてきそうだ。
 あの男は翔梧に、「翔一だ」と言ったが、納得できなかったのは訳がある。
 付けた腕時計は兄の形見であり、兄の就職祝いとして母が贈った、言わば母の形見でもある。自分は「翔一」と言いながら、真の翔一兄ならば見逃すはずのない腕時計を見ても、あの男は少しも気に留めなかった。腑に落ちない翔梧は腕時計へ目を遣るたびに、「どこへも行かないで!」と叫ぶ母の声を聞いた。
 その一方で、あの男の言うままに「翔一兄」と認めていれば、今ごろ翔梧はあの男と蚕子の夫婦がいる地で共に暮らし、繭子や絹子たちから「叔父さん」と慕われていたのではないかと心が揺れる。
「お母さんが、『どこへも行かないで!』と言うならば、ご両親の夢を騙る男の冥界からの誘い。以後、確かめようなどと過去を覗いてはなりませぬ」
 一連の話を聞き取ったお坊さんが翔梧を戒めた。
「過去とは思い様によってどのようにも形を変えます。良しと思えば過去は良きものとなり、悪しきと思えば辛い過去に。ですが、不用意に過去を確かめようとすれば、過去へ通じる穴に落ちてあらゆる妄想に翻弄されるでしょう」
 母の声がなければ翔梧は後戻りのできない「かいこの世界」に身を置いていただろう。現世に引き留めてくれた母へ感謝を込めて祈る翔梧。
 蚕業技術指導所の跡地に蠢く蚕の魂を鎮めるように、お坊さんの読経が朝もやの中へ流れゆく。

 
本作品はフイクションです。登場人物、事故等は物語上設定したものです。
-参考文献- 城端町史/ 城端行政史/ 級長戸辺(しなとべ)神社記
「気まぐれな写真室」さま、懐かしい写真の掲載を快諾いただきありがとうございます。
その他、インターネットで、蚕の記述を参考にさせていただきました。
 
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素姓乱雑
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