嘘だまり

男たちが綴る曳山史

2017年01月14日
ユネスコ登録「城端曳山祭り」 0
身命を賭して祭りを守った男たち

今回「城端曳山史(以下曳山史と略す)」を紐解き、曳山をめぐる騒動に触れてみる。

城端駅から街中に向かう国道304号線が、大きく弧を描ききる手前に地蔵堂が有る。祀られているのは延命地蔵といい、地蔵堂の横に謂れが記してある。(下記写真)

事件の発端、経過、結果を「曳山史」は各市史などを引用して詳しく述べているが、ここでは要約した内容とする。

御車山の創始が慶長15年(1610)と伝える高岡(高岡市)で、宝暦12年(1762)、御車山を持つ山町と、似た曳山を作った新興の木町との間で紛争が起きた。
 この時すでに各地に於いて曳山祭りが盛んで、享保元年(1716)の御神像が残っており、享保4年(1719)に曳山ができた城端(南砺市)。元禄5年(1692)の創始と伝え、6本の曳山が享保6年(1721)までに整う放生津(新湊市)。宝暦2年(1752)城端大工町製作の曳山を有する石動(小矢部市)。寛保元年(1741)花山を作り業平人形を飾ったのが始まりで、後に明和8年(1771)城端の曳山を譲渡形式で所有して花山を屋根の有る曳山に改める八尾(富山市八尾)。その他にも、宝永4年(1707)富山の山王祭で「曳山9本」との記録がある。

結果、高岡奉行所を通じ、同じ高岡の中であっても木町には由緒がないので曳山は相成らぬと厳達される。事件の萌芽である。

安永2年(1773)に、放生津の曳山を高岡の職人へ修理に出しことがあり。高岡の曳山総代がこれを見て、高岡の開祖利長公から拝領の曳山の車に似せた大八車だと言い出して差し押さえる事件が起き、これを機に数々の騒動を引き起こした。

安永3年の春以降、高岡の曳山総代は、放生津だけではなく、城端、今石動、の曳山車も高岡の車と似ており、御車山の権威を冒すものだとして差留めを奉行所に申し出る。再三の嘆願、差留めにまつわる騒動で魚津の盗賊改めによる吟味となった。

当時、車訴論の詮議に当たった寺西弾正の地行は七千石、通常は二千石前後の者が就任しているが、大身の盗賊改め方である。安永4年の曳山祭りを城端、今石動では遠慮したが放生津では曳き回して大騒動が起き、魚津へ連行された高岡の二番町若頭、津幡屋与四兵衛が拷問を受けて入牢中に衰弱死するという事件が起きる。

城端ではその年の12月に盗賊改めの召喚。入牢中の衰弱死を伝え聞いた関係者は、生きて帰れるという保証のない召喚に身の震える思いをしたのではないか。謂れ書きは当時の様子を生々しく伝える。

また曳山史は、
――魚津へ出頭した7人の内訳は、西上町が4人、西下・東上・出丸の各町が一人となっている。西上町に多いのは、西上の車が台鉢似寄車の疑いがあったからだと思われるし、西下町の小平次は大工棟梁、東上町の殿村屋和助は唐津屋とも称される人形作家だからであろう。また入牢を命じられた3人は、曳山作成に直接関係があるとされたからであろう。出丸町の大桑屋(おんまや)が出頭したのは、宝暦12年(1762)に出丸町が曳山を改めたからではないかと言われている――
――一行のうち大工佐右衛門は病気のため年内に帰宅し、間もなく死亡したが、延命祈願の甲斐あって谷屋吉兵衛・大桑屋甚四郎等5名は正月24日に帰宅を許され、総代となって残っていた塗師屋治五右衛門も6月1日に無事放免となり、曳山も従来どうり曳いてよいとの裁決が出て、それ以来曳山祭りは盛大に行われるようになった――
と、延命地蔵にまつわる話を伝える。

盗賊改めは城端、今石動、放生津の祭礼の始まりや、曳山を作成した責任者を尋問。

安永5年2月13日藩庁より「高岡祭礼の時に曳き廻る御車山は由緒のある特別のものである。高岡以外の祭礼に二ツ指車や板車と称して、高岡車に類似した車山を曳くことは今後禁止する」との申し渡しが有った。

翌日2月14日、曳山車を魚津へ提出するように命じられ、2月17日城端を発する。伝承によると、お咎めを逃れるため、町中の大工が総がかりで一夜のうちに提出する車を作り直したという。

二ツ指車や板車は禁止するが、城端の曳山祭は歴史が古いので許可され、今石動は曳山祭の創始が近年なので認められなかった。放生津は7町の板車の没収、残りは返還となったが、暫らくの間曳山祭りは中止に追い込まれる。

台鉢車形式は許可しないが、曳山祭そのものは許可するという施策は、他所の追随を拒む高岡町人の願望を満たすことで藩の権威を保ち、曳山祭りそのものを許可することで、祭礼を奨励し日ごろ抑圧されがちな民衆にエネルギー発散の機会を与える意図があったのでは、と曳山史は結ぶ。


このようにして車訴論は終結。御車山を持つ山町以外は明治になるまで御所車形式の曳山作成を制約されたが、曳山祭を許可された城端には優れた塗師、人形師、城端大工などがいる。曳山の構造や彫刻、塗りや人形、御神像の作成など、制約された部分以外に情熱を注いだ。後に城端曳山祭りは「見せる祭り」と同時に「聞かせる祭り」までに昇華、江戸時代の形式を伝える曳山祭りで越中の小京都・城端を訪れる人たちの心を浮き立たせる。

 

延命地蔵が祀られている地蔵堂

延命地蔵
Sosei Ranzou
 

地蔵堂右手に延命地蔵の謂れを記してある

延命地蔵
Sosei Ranzou
 
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