嘘だまり

かいこ(18)

2016年12月05日
かいこ

当時の日本は朝鮮戦争後に起きた特需ブームで、1954年(昭和29年)頃の生糸生産量が、人絹よりも正絹が主体で最盛期だった昭和15年以前の45%近くまで盛り返した。
 需要を見越して城端の地では1953年に蚕業技術指導所を創設したものの、すでに近辺の織物工場に至っては安定した品質を得られる合繊繊維が主体となり、農業基本法に基づく圃場整備が始まって、農家は収益の高い米作りに移行、人手は賃金が安定して得られる工場に集中する。

「事故の起きた8年前の朝、農家から蚕の様子が変だと第一報が入ったがやけど、指導所の存続意義が問われているさ中でお父さんは対応に追われ、農家に出かけることができなんだ。矢継ぎ早に2回目の連絡が来て、お父さんは事の重大さに気付いたがいちゃ」
 萱でいた合掌造りが生み出す好環境に人と蚕が一緒に住むことにより、今まで重篤な疫病の発生を防いできた。そうした概念にとらわれ、遅れた対応が後手へと回る。
「もう蚕はやめにしょまいけ」
 養蚕農家は口をそろえた。
 車には消毒機材と消毒液「ホルマリン」の希釈液きしゃくえきを積んでいたが、養蚕農家は、蚕室だけと言えども自分たちが居住する建物内に、その頃まだ一般には使われていない、不快な匂いの強い薬剤の散布を拒んだ。
「車に積んできた消毒機材はまにあわなんだというのは、そういった意味だ」と、北さんは明かした。
 信心深い養蚕農家は、病死後の蚕の体が今まで見たことのない、ミイラのように固くなってしまうという疫病が広まったのは、ご先祖さまの化身である蚕を粗末にしたからで、「蚕の魂を解き放ち天に返しなさい」というお上人の教えに従うと言い張り、「後始末は自分たちでするちゃ」と突き放した。
 その後で、
  「あんたらの子だけでも無事で良かった。今まで預かっていたがやけど、もう蚕をやめるさかい育てられんようになった」
 思いもしない話の成り行きで呆然とする二人に三頭の蚕が入った箱を押し付けた。

 
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素姓乱雑
この記事を書いた人: 素姓乱雑
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