嘘だまり

かいこ(10)

2016年11月18日
かいこ

需要に応じて指導所が創設されたものの、城端(現 富山県南砺市城端)に立地する工場ではすでに、1930年(昭和5年)から人絹を使った織物生産が始まり、指導所が出来た三年後の1956年(昭和31年)には、当時、合成繊維の中でも画期的といわれたナイロンを使って織物生産を始めている。

十三年後の情勢を知る翔梧は、正絹で賑わった城端が戦中戦後には人絹で賑わい、その後、合成繊維の時代をまい進することは知っている。
 加えて、1940年(昭和15年)の奢侈しゃし品等製造販売制限規則施行は正絹の使い道を奪った。戦後は食糧難もあって土地改良法(1949年6月施行)、農業基本法(1961年)に基づく圃場ほじょう整備事業が始まり桑畑は次々と水田に変わった。実入りの大きい米作が主力になって手間ばかりいる養蚕は衰退する。養蚕を続けるには幾多いくたの困難を乗り越えねばならい。今から思えば翔梧の父の仕事は時代の流れに逆らうものだったが、父は真摯に蚕と向き合い養蚕農家を後押ししようと試みた。父の要請に応えたわずかな農家も、何かと父を頼りにする。そのような父の姿を、幼い翔梧は眩しい目で見た。

八年前の父と母が亡くなった日の朝、農家が、「桑を与えても食べようとしない、蚕の様子がどこか変だ」と、知らせて来たことを翔梧は思い出した。

事故が起きたその日、養蚕の将来を左右する大切な会議に出る予定でいた父は、蚕の状態を聞き取り農家に指示を行ったが、出かける寸前になって、「急がないと蚕が危ない」と、再び知らせが入った。父が聞いた内容では感染症が疑われたといい、感染症は主に、口を通して感染する経口感染、皮膚から感染する経皮感染、卵を通して感染する母体(経卵)感染があり、蚕の様子を見なければどこから感染したのか判断はできないが、とりあえず感染した蚕を取り除いた後消毒をする必要がある。
「お蚕さま」と呼びたいほど大切な蚕が全滅となれば、養蚕の将来は閉ざされてしまう。憂慮した父は母と相談した結果、会議の出席を取りやめ、連絡のあった五箇山まで行くことにした。だが通常使う乗り合いバスを待っていては間に合わない。すぐに車を借りた父と母は消毒機材を積み込み車に乗り込んだ。

関連記事