嘘だまり

かいこ(9)

2016年11月13日
かいこ

翔梧はやさしかった父と母を思い浮かべて兄・翔一の苦言にため息をつく。亡き父と母を偲ぶうちに、仕事熱心だったと聞く父の記憶が浮かんだ。

翔梧の父は、1953年(昭和28年)、城端町北野(現、富山県南砺市北野)の地に創設された蚕業技術指導所に勤めていて、家族は官舎に住まいしていた。

指導所はその頃起きた正絹  (絹には正絹と人絹が有り、正絹は天然繊維で、繭から取り出した本物の絹糸を指し、人絹は絹糸に見立てた合成繊維を指す) の需要に対応するもので、蚕室は23・33坪(約77・12㎡)ほどの広さだったと後ほど文献で知るが、どのような大きさの蚕座があったのか翔梧は分からない。蚕の世話は早朝から始まるため、父は指導所内にあった八畳の宿直室に泊まり込むか、朝早く出かけて翔梧が起きた時にはすでに姿が見えないこともあった。

その頃まだ頑是なかった翔梧はいろんな事情から指導所に立ち入ることが禁じられたので、桑園面積253坪(836・36㎡)に植えられたたくさんの桑の木と木造二階建ての指導所を遠くから眺めた記憶しかない。今になって建物の中を見たいと思っても時すでに遅く、蚕業技術指導所は役目を終えて更地になってしまった。

父の仕事内容について聞かされた話では、早朝、種類別に取り入れた新鮮な桑の葉を枝ごと食欲旺盛な蚕に与えたり、温湿度の管理や飼育の記録、蚕座の清掃・消毒など、日常の業務をこなしたという。他にも繭の中の蚕が「さなぎ」から「カイコガ」という成虫になって出てきた後での産卵、農家に対しては蚕の生育を中心にした一連の技術指導があった。
 もっとも父は、「何も一人でやっていることではない。養蚕をしている農家の苦労とは比べ物にならないくらいだ」と、笑いながら言ったというが、生き物を扱うだけに気苦労が多く、多忙だったと聞いている。

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