嘘だまり

かたみ分け(1)

2017年10月01日
小説・かたみ分け
― 第一章 ―

誰もが一日の仕事から解放されて帰路を急ぐなかで、加奈だけが淋しさを抱え、人の群れの中をさまよっている。夫はまだ存生していて、もしかしたら人混みの中でぱったりと行き合うかもしれない。そんな儚い望みが加奈を人の群れの中へ誘う。
 短い間だったけれど、楽しかった夫との日々はもう戻らない、と頭の中では分かっていても、加奈の気持ちが追いついていかない。夫が亡くなり、慌ただしくひと月が過ぎて、「広い」と感じる家に一人でいれば、淋しさが加奈をさいなむ。

 ふる里遠く離れたこの町に嫁いできた加奈は、暮らした年月が僅かなこの町に未だ馴染んでいなく、人恋しさを満たしてくれる幼馴染のような、心安い話し相手が思い浮かばなかった。だからといってこの町を去れば、夫と共に暮らした月日が空白になって記憶さえも失いそうで、そこまで踏み切れずにいた。
夫が亡くなると今まで気軽に声を掛けてくれた夫の友人、親身になって相談に乗ってくれた夫の係累までが、手の平を返したように疎遠となり、人の群れの中をさまよう加奈に目をひそめて声を掛けなくなった。


そこには、若くして子供がいないまま寡婦となった加奈という存在を持て余し、一時も早く厄介ばらいをしたいという考えが見え透いていた。夫のことはすぐにも忘れて、次の相手を見つけろということだ。捨て猫でもあるまいにと、加奈はいきどおる。だが一方で、若すぎる加奈がいつまでも重い過去をひきずり、寡婦のままいるのはかわいそうだと、まわりが気を使っているのもなんとなく分かる。

 寂しさを抱えたままで人の群れの中をあてもなく歩く加奈が人混みの中で、懐かしい後ろ姿を見つけた。夫によく似た甥・翔平に違いない。そうだ彼がいる!
「翔ちゃん!」
思わず加奈は呼びかけた彼に向かって手を振った。
 翔平は背後から名を呼ばれた気がして歩みを止めた。後ろを歩いていた人とぶつかりそうになるのをやり過ごし、振り返れば、ビルの窓ガラスに反射した西日の残照が翔平の目を射った。思わず目を細めて辺りを眺めれば、翔平の視線を求めて小さく手を振りながら、小走りで近づく加奈の姿が見える。

 翔平は加奈の存在を忘れた訳ではない。叔父の葬儀の日、加奈は支えていないと立っていられないほど憔悴し、目は虚ろで涙を流すことさえ忘れていた。その時の痛々しい姿は、いまも翔平の脳裏に鮮明な記憶となって残っている。

 すぐに追いつき横並びになった加奈の歩調に合わせて、翔平はゆっくり歩く。翔平が見た加奈はおもやつれをした顔に愁いを含み、それが却って加奈の美しさを引き立たせて、翔平の目に眩しく映った。

 まだ荒い息が残る加奈は前を向いたままで、いつまでもよそよそしい様子の翔平をなじるように言った。
「翔平さんと会うのは葬儀の日以来ね」
「早いものだ。もう、ひと月以上が過ぎた」
「私にはあの日以来、時間が止まったまま。彼がこの世にいないなんて、いまだに信じられない」
「あまりにも突然だったからね」
 日にちの話でふと思い出した顔になった翔平は、加奈の心に気付かぬふりで話題を現実に戻した。
「もうすぐ四十九日だけど、法要の手配など済んでる?」
「そのことなら、おさんが準備してくれるって」
 加奈は視線の先を翔平に転じ話しを変えた。
「ねぇ、帰るときはいつもこの時間なの?」
 黙ったままで頷きかえす翔平。
「少し遠回りになるけど、家に寄っていかない」

 唐突な誘いに翔平は戸惑いを覚えてすぐに答えられなかった。加奈は急逝した叔父の奥さんだから、翔平にとっては義理の叔母にあたるが、叔母といえども、父と年の離れた弟である叔父がひと週り違う加奈と一緒になったのだから、加奈と翔平の年の差は無いに等しい。

 翔平の父は、弟である叔父が年の離れた加奈と一緒になると打ち明けたときに、ためらうこともなく二人の良き理解者となっている。その父が、憑かれたようにさまよう加奈の話を聞いて憂え、妙な風評が独り歩きすればお互いによくないからと、父の許しを得ないで、翔平が加奈の家に立ち寄ることを禁じている。
 翔平は何事にも気遣いを見せる父の言いつけに従った。


 
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