嘘だまり

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かいこ(5)

飲み始めてからずいぶんと時間が過ぎたのか、卓の上には空になって転がった銚子、汚れた皿などが散らばっている。子供たちはとうに食事を終えて別の部屋へ移り、蚕子という女も子供の世話をしているのだろうか姿は無く、茶の間に残ったのは男と二人だけだと翔梧は気が付く。子供たちのいない茶の間は先ほどと違って、冷えびえとして薄暗いものに見えた。 先ほどまで聞こえたカエルの鳴き声も今は途絶え、静まり返って物音一つしな...

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かいこ(7)

十二年前に何が起きたというのだ? 翔梧はその時から過去を失ったと気付かぬまま十二年という月日を過ごしたことになるのか。「夢で見るからには現実という下地が有るからだ。家の前に出て通りを眺めれば当時を思い出すかもしれんな。で、夢の続きは出てこないのか?」  男はじっと翔梧の顔を見た。「隠しても知っているぞ」という顔つきだ。翔梧の心に不安を積み重ねてゆく。 ――過ぎた日々を明るみに出してどうしょうというの...

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かいこ(9)

翔梧はやさしかった父と母を思い浮かべて兄・翔一の苦言にため息をつく。亡き父と母を偲ぶうちに、仕事熱心だったと聞く父の記憶が浮かんだ。 翔梧の父は、1953年(昭和28年)、城端町北野(現、富山県南砺市北野)の地に創設された蚕業技術指導所に勤めていて、家族は官舎に住まいしていた。 指導所はその頃起きた正絹  (絹には正絹と人絹が有り、正絹は天然繊維で、繭から取り出した本物の絹糸を指し、人絹は絹糸に見立...

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かいこ(10)

需要に応じて指導所が創設されたものの、城端(現 富山県南砺市城端)に立地する工場ではすでに、1930年(昭和5年)から人絹を使った織物生産が始まり、指導所が出来た三年後の1956年(昭和31年)には、当時、合成繊維の中でも画期的といわれたナイロンを使って織物生産を始めている。 十三年後の情勢を知る翔梧は、正絹で賑わった城端が戦中戦後には人絹で賑わい、その後、合成繊維の時代をまい進することは知っている...

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かいこ(12)

人喰い谷を通る時は誰もが慎重な運転をするので、今まで重大事故は起きていない。それが今回、「2名の乗った車が谷に転落」、という最悪の事故発生で地元は大変な騒ぎになった。すぐに救助隊が編成され、慌ただしく次々と現場に向かうサイレンの音が広くはない町を揺るがした。  救出に駆り出された人達は現場に到着すると次々に命綱を頼りに急峻な崖を下りた。時折、濃いモヤが薄らげば、黄泉の国へ誘うように深い谷底が顔を覗...

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かいこ(15)

- 第三章 - 「いつもどーも。バスで出はったと聞いたもんで時間見て来たがやけど、あんたの所まで行けんで堪忍やちゃ」 兄弟に歩み寄った北さんは、この地方の方言交じりで今日の法要に出られなかったことを詫び、翔一も方言を交えて礼を述べた。 「ここまで来てもらっただけで十分ですちゃ」 「ほんならちょっこ(ではちょっと)参ってくるさかい、失礼しますちゃ」  呆然ぼうぜんとする翔梧、翔梧の驚く理由を少しも知ら...

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かいこ(16)

さりげなく話してキセルの吸い口をくわえ、煙草に火をつけた。緑陰に紫煙と香りが漂う。  先ほど翔梧は翔一から、「間に合わなくて蚕は全滅だった」と聞いているので、耳新しい話しではない。 「時間的に間に合わなかったということやね」  翔一が北さんの話しを確認した。 「そうやなくて……、使えないものやった、という意味ながやちゃ」 「えっ、ど、どういうこと?」  翔一、翔梧が同時に声を上げた。 「その……」  ...

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かいこ(17)

翔梧の心を覗くかのように目つき鋭く底意地の悪い顔付きをして、「俺が夢の続きを見せてやる」と言つた「あの男」も、「北さん」でいる限り理不尽な話を持ち出したりはしないだろう、と翔梧は思った。  一方、北さん越しにいる翔一は何を思っているのか、何もない一点を見据えたまま。  その頃の若い夫婦の思いを代弁するかのように、北さんの話は熱を帯びた。 「戦後の物不足が続いていた頃で生活は楽でなかったがやけど、夢...

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かいこ(18)

当時の日本は朝鮮戦争後に起きた特需ブームで、1954年(昭和29年)頃の生糸生産量が、人絹よりも正絹が主体で最盛期だった昭和15年以前の45%近くまで盛り返した。  需要を見越して城端の地では1953年に蚕業技術指導所を創設したものの、すでに近辺の織物工場に至っては安定した品質を得られる合繊繊維が主体となり、農業基本法に基づく圃場整備が始まって、農家は収益の高い米作りに移行、人手は賃金が安定して得られる...

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かいこ(19)

北さんは、「お父さんとお母さんは失意のまま帰路についた」と話しを接ぐ。 「日中でさえも薄暗い森の中の道を、さ迷ったと思うほど中間地点の細尾峠に着くまでの道のりは長く、待ち望んだ城端の村落が山の間から見えるようになっても、どんよりとした疲れが体の奥底に沈んだままで消えることがなかったがや」  翔梧の頭の中に、どうしょうもなく後悔に苛さいなまれる父の姿が浮かんだ。  北さんの話しは間違っていないだろう...

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かいこ(20)

向かい側の急峻な山肌に折り返した道が見えて、お父さんは道が鋭角に折れ曲がった難所が近いと知る。 「ねぇお父さん、小箱に入った子がさっそく糸を吐いてる」  蚕の入った箱を持ち上げ、置いた小箱の中を覗いていたお母さんが明るい声を上げた。  「小箱をちぎって三つに分ければよかったかな、そうすれば……」  嬉しくなったお父さんが車の前方から目をそらしてお母さんを見たわずかの隙を突いて、轍を踏んだ車が大きく弾...

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かいこ(21)

疑問を発した翔一に、北さんは悠然ゆうぜんと答えた。 「いや、事故が起きるまでをつぶさに知るものはいたがや」 「誰なんです、その人は」  翔梧は勢い込んで聞いた。 「人と言うよりも一頭と言った方がいいだろう」 「まさか……、蚕が?」  翔一と翔梧は口をそろえて北さんを見た。 「何も驚くことは無い、我が子のような蚕が付き添っていたがやから、全てを知るのは当然やちゃ」  翔梧の背筋に冷たいものが走り、この...