嘘だまり

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かいこ(1)

「か・い・こ」 蚕? 回顧? どちらを取りましょうか。えっ、両方とも! 欲張りですね。ともあれ、過去を遡ってのぞいてしまった人の話しを進めさせていただきます。 - 第一章 - 辺りを包む白い世界、道にも薄く雪が積もっている。兄が微笑みながら見ている前で、白い道に残る黒い足跡が面白く、はしゃぎながら飛び回る自分がいた。  ――ほら兄さん、足跡がこんなにくっきりと。 翔梧は振り返って兄の笑顔と道に残った靴底の...

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かいこ(2)

誘導員は翔梧の顔を覗き込んで「申し訳ありませんが、この先で急な工事が入ったので通ることができません。迂回をお願いします」 告げた後車から離れて誘導灯の先を一点に向けた。示された方角を見ると車が一台通れるほどの脇道がある。翔梧は指示通りに脇道へ車を進めながら何気なくルームミラーで後方を見ると、誘導員の姿はすでに降りた闇に溶け込み、誘導灯の明かりだけが人魂のように舞った。 降り続いた雨が止んで視界を狭...

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かいこ(3)

見知らぬ男から兄と言われて翔梧が戸惑っていると、 「どうしたの、知った人?」 二人の声を聞きつけたのか、女の声と奥から駆けつける足音が間近になった。 「何を遠慮している、ささ、早く上がれ!」 「何もお構いできませんけど、上がってください」  夫婦と思おぼしい二人に手を持たれ、翔梧は靴を脱ぐ暇もなく玄関から内へ引きずり込まれる。その時になって抜けた靴が「コトン」と音たてて廊下に散らばった。 翔梧が連...

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かいこ(4)

男は納得したように、「まぁいい、無理に思い出さなくてもそのうちに思い出すさ」 続けて、 「まさか俺の名前を忘れていないだろうが、俺はおまえの兄で翔一、これは嫁の蚕子、そして子供は繭子と絹子だ」と、指し示して翔梧に名前を教え、嫁には「弟の翔梧だ」、子供たちには「叔父さんだよ」と優しく言い聞かせる。 どうやら男は、翔梧が出かけたまま戻らないばかりか長い年月に渡って便りも寄こさなかったのは、「記憶を無く...

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かいこ(5)

飲み始めてからずいぶんと時間が過ぎたのか、卓の上には空になって転がった銚子、汚れた皿などが散らばっている。子供たちはとうに食事を終えて別の部屋へ移り、蚕子という女も子供の世話をしているのだろうか姿は無く、茶の間に残ったのは男と二人だけだと翔梧は気が付く。子供たちのいない茶の間は先ほどと違って、冷えびえとして薄暗いものに見えた。 先ほどまで聞こえたカエルの鳴き声も今は途絶え、静まり返って物音一つしな...

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かいこ(6)

「小さい頃から住んでいたというならこの家だ。覚えていないか、雪の降った朝、俺が見ている前で白くなった道に足跡をつけるのが面白くてはしゃいだことを」 「記憶は無いが不思議なことに、夢で見たことがある」 今朝見た夢の内容を先回りで明かされ、翔梧に不安を抱かせた。夢の全てを話せば「記憶を無くした」が現実のものとなりそうで、怖くなった翔梧は「車のライトが襲い、体が宙を舞った」部分を暗に伏せた。 ――男はやは...

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かいこ(7)

十二年前に何が起きたというのだ? 翔梧はその時から過去を失ったと気付かぬまま十二年という月日を過ごしたことになるのか。「夢で見るからには現実という下地が有るからだ。家の前に出て通りを眺めれば当時を思い出すかもしれんな。で、夢の続きは出てこないのか?」  男はじっと翔梧の顔を見た。「隠しても知っているぞ」という顔つきだ。翔梧の心に不安を積み重ねてゆく。 ――過ぎた日々を明るみに出してどうしょうというの...

蓮の花(1)

蓮の花(1)

その日、今にも泣きだしそうな空の下を散策していた私は、近くに不忍池が有ると知り、訪れてみる気になった。池畔に立つ私に見えてきたのは池一面を覆う蓮の葉。その間に開いた清らかな花を見ていると、心が洗われるような気がする。不忍池の花はやはりご縁があったようだ、来てよかった。私は蓮の花に向かって心の中で手を合わせながら、昨日一日の出来事を思い浮かべた。...

蓮の花(2)

蓮の花(2)

兄はヒゲをそることがなかったのだろうか。いや、身ぎれいな兄だったからそのようなことはないはずだ。だとすれば、倒れてからもヒゲが伸びるほどの時間、動けないまま生きていたのだろうか。あるいは、亡くなってもヒゲだけは生きて伸び続けたのか。私が考え込んだのを見て戸惑った署員は、気分が悪くなったと思ったのか写真を取り上げた。「どうでしたか?」 署員は写真の人物が兄かどうかを聞く。「音信不通になってから十年ほ...

蓮の花(3)

蓮の花(3)

思い浮かべていた昨日の出来事から戻つて視線を転じれば、蓮の花の向こうに弁天堂が見える。今日は曇っている分だけ蒸し暑い。このあと私は不忍池を離れて、予定通りに兄が住んでいたマンションを訪ねて冥福を祈るつもりでいた。署で保管しているマンションのカギは受けとらなかったが管理人とは話が通じたので、訪ねれば部屋は無理としても、マンションの中に入れてもらえることになっている。もし管理人と会えなくても、兄が住ん...

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かいこ(8)

- 第二章 - 「翔梧!」 聞き覚えのある兄の声で翔梧は正気に戻った。 ――何だ、今まで見たのは夢だったのか。 そう思ったがなにか様子が変だ。翔梧の身形すべてが若々しい。〔どうだ、十三年前に戻った気分は。若くなるのだから、そう悪くはないだろう 〕先ほどまで目の前で話していた男の声がする。翔梧もこの年の頃は兄の庇護のもと、何の屈託もない。「十三年前? 十二年前ではなかったのか」 〔聞いていなかったのか、「1...

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かいこ(9)

翔梧はやさしかった父と母を思い浮かべて兄・翔一の苦言にため息をつく。亡き父と母を偲ぶうちに、仕事熱心だったと聞く父の記憶が浮かんだ。 翔梧の父は、1953年(昭和28年)、城端町北野(現、富山県南砺市北野)の地に創設された蚕業技術指導所に勤めていて、家族は官舎に住まいしていた。 指導所はその頃起きた正絹  (絹には正絹と人絹が有り、正絹は天然繊維で、繭から取り出した本物の絹糸を指し、人絹は絹糸に見立...